「そこまで……」
「ぐ……ぬうう〜〜!!」
 團長が勢いよく久瀬に殴りかかろうとした瞬間、すんでのところで一人の生徒が團長の腕を掴みあげた。
「佐祐理がやめろと言っている。聞こえなかったの……?」
「ぐうう! 離せ! 離せぇ、川澄ぃ!!」
 何と、團長の腕を掴みあげたのは舞先輩だった。團長は舞先輩の制止を振り切り、必死に拳を振り下ろそうとしている。しかし、舞先輩は微動だにせず、團長の腕を離そうとしない。
 潤と斉藤の2人ががりでさえ止められなかった團長をこうもあっさり止めるとは、一体舞先輩は何者なんだ……?
『うおお〜〜! カイザーリンのご意思に反した團長に、インペリアルガードが制止に入ったぞーー!!』
「インペリアルガード?」
 舞先輩が團長を制止し始めてから、そんな歓声が体育館全体に響き渡った。
「なんだ、潤? インペリアルガードって?」
 恐らく佐祐理さんと同質の二つ名なのだろうが、どうして舞先輩がそんな名前で呼ばれているのか潤に訊ねてみた。
「カイザーリンたる倉田先輩にいっつも付き従っている親衛隊長みたいだからだとよ。オレは好きじゃねぇがな」
「好きじゃない?」
「ああ。川澄先輩はインペリアルガードと呼ばれても差し支えない力を持っている。現にオレ等2人がかりで止められなかった團長を、あっさりと制している。
……それが気にいらねぇんだよ……!!」
 まるで舞先輩に敵意を向けるかのように、潤は軽く拳を握りながら、小声で愚痴ったのだった。
「離せ、離せ川澄ぃ!」
「仲間を侮辱されたのが許せないという気持ちは分からないでもない。けど、今は暴言に対して暴力を振るう場じゃない……。そんなことも分からないの? あなたは」
「離せ! 離さねぇなら、テメェもまとめてぶっ殺す!!」
「殺す……? 同じ学校の生徒を殺すというの、應援團のあなたが? そんなに程度の低いものなの、應援團長というものは」
「くっ、應援團の推薦を断ったテメェに應援團長がどうのとか言われる筋合いはねぇよ!!」
「應援團の推薦を断った? どういうことだ」
 確か水高の應援團は原則として立候補であり、誰かに推薦させられてなるものではないと、以前母さんに聞いたことがある。立候補が前提なのにも関わらず推薦されるとは、それほど舞先輩は有能な人物だったということなのだろうか?
「言葉通りだ。アイツはなぁ、オレ等應援團を遥かに凌ぐ力を持っていたのにも関わらず、應援團に入らなかったんだよ!!」
 俺の疑問に答えるかのように、潤が激昂した声で語った。潤の話によれば、舞先輩は入学当初から應援團に入團することが注目され、多くの先生達が舞を應援團に推薦したらしい。
 しかし、舞先輩は学校からの強烈なアピールを断って、普通の生徒として学校生活を送ることを望んだとのことだった。
「それでも諦めきれなかったある先生が、何でそこまで頑なに断るのか聞いたんだとよ。そしたら帰って来た答えが、『私が應援團に入団したら、あの人は私の所へ帰って来なくなる』からだとよ! まったく、言い訳にもならねぇナメた理由だぜ!!」
 あの人は私の所へ帰って来なくなる? この学校で誰かを待っていたいがために應援團への推薦を蹴ったということなのだろうか。しかし、舞先輩がそれほどまでして逢いたい人とは、一体どんな人なのだろうか……?



第壱拾九話「皇女、バンザイ!!ジーク・カイザーリン


「もうその辺りにしておけ、宮沢」
 抑える舞先輩に力尽くで抵抗する團長。膠着状態が続く2人の間に幸村先生が割って出た。
「止めんな、幸村のジジイ!」
「ふむ、團長になって大分更生したが、本質は変わっておらぬようじゃの」
 ガシッ! ダーン!!
 次の瞬間幸村先生の制止を無視した團長は、幸村先生に背負い投げされ、大きな音を立てて体育館に崩れ落ちた。
「ぐ、うう〜〜」
「仲間を思いやる心は評価に値するが、相手の挑発に乗って力で訴え出るのは関心せんのぉ。宮沢、お前はまたあの頃のお前に戻るつもりか?」
「……。ああ、今ので目が覚めましたよ幸村センセイ。例え團長になろうと俺の本質は変わらなぇ。だが、確かに今のはやりすぎたな。理由はどうあれ神聖なる生徒総会の場で力で訴え出るのは場を著しく乱す行為だ。
 この場は自分の非を認めて大人しく退散するぜ。あばよ」
 幸村先生の“指導”により正気を取り戻した團長は、自らの非を認めて体育館を後にしたのだった。
「凄いな、幸村先生は」
 潤と斉藤2人ががりで抑えることができなかった團長を、幸村先生はいとも簡単に背負い投げした。團長を制した舞先輩にも驚いたけど、あの温厚そうな幸村先生が見せた豪快な背負い投げにはもっと驚いた。
「無理もないさ、幸村のジイさんは元自衛官だからな」
「元自衛官?」
「ああ。長年自衛官を務め、退職したあとウチの学校に再就職したという話だ。ちゃんと教員免許は持ってるらしいから、天下りにはならねぇだろうな」
 成程、元自衛官か。恐らく先程の背負い投げなどは自衛官時代に身に付けた技能なのだろう。しかし、例え元自衛官とはいえ、老齢な身体で体格のいい團長を投げ飛ばすとは、大したものだ。
「助かりましたよ、川澄さん」
 騒動が一段落し、久瀬は團長を制した舞先輩にお礼の言葉を述べたのだった。
「かん違いしないで……。別にあなたを助けたわけじゃない。私はただ佐祐理の言葉に従っただけ……。それに、あなたの行為も許されるものじゃない」
「えっ、それはどういう……」
「舞の言うとおりです、久瀬さん。あなたの行為は徒に生徒総会を混乱させた許されざる行為です。生徒会長という生徒を束ねる立場にいらっしゃる方が、あのような暴挙に出て許されるとでも思っているのですか?」
「そ、そんな。僕はただ生徒が倉田さんの考えに従わないから問い質そうと……」
 久瀬は佐祐理さんに戒められるとは予想だにしていなかったのか、佐祐理さんに注意され始めるとあたふたとしながら弁明工作に走り出したのだった。
「何の話ですか、久瀬さん? 今生徒総会において提出された『應援團のバンカラ制服の廃止』の議案は、久瀬さんご本人が主導となって取り組まれたもので、佐祐理は一切関与していませんよ?」
「確かに今回の議案は僕が考えたものだ。しかし、そもそもこの議案は倉田さんが昨年度提案された『水瀬高校における制服のデザインの変更』において例外とされた應援團のバンカラ服を廃止しようと考えた議案だ。つまり、僕が提出した議案は倉田さんの改革路線を受け継ぐもので、元を辿れば倉田さんの議案に辿り着く。だから……」
「それは詭弁というものですよ、久瀬さん。佐祐理は『水瀬高校における制服のデザインの変更』において、應援團のバンカラ服廃止を匂わせる条文は一切記述しておりません。よって、久瀬さんの提出した議案は、佐祐理の議案を元にしたとは言えません」
「だからそれは倉田さんが應援團に脅されたから議案に盛り込めなかっただけで……」
「いい加減にしなさい!」
「ひっ……!」
 久瀬の言い訳がましい詭弁に辟易したのか、佐祐理さんは久瀬を一喝した。あの温厚な佐祐理さんが見せた憤怒の一面。普段大人しい人ほど怒ると怖いと聞くが、佐祐理さんのはまさにそれだ。
 普段笑顔を絶やさない佐祐理さんの怒りに、久瀬だけではなく、先程まで熱狂的な声をあげていた全校生徒もみな一斉に沈黙した。
「佐祐理が應援團に脅迫されたという証拠がどこにあるのですか? 客観的な一次資料もなく、主観的な証言すら存在しない憶測とも言えない放言を、生徒総会という生徒の総意を問う場において発言なさることがいかに総会を冒涜する行為かということを、生徒会長である久瀬さんが知らなかったとは言わせませんよ。
 それに、百歩譲って本当に脅しがあったとして、佐祐理が脅迫に屈するとでも思うのですか?」
「そ、それは……」
 キリリと目を引き締め叱り付ける佐祐理さんに、久瀬は反論する余裕さえなかった。そう、久瀬は言っていた。倉田さんの偉大さを理解できない愚民共は後を絶たなかった。しかし、倉田さんはそんな愚民共を次々と粛正していったと。
 それはつまり、自分の意見に反対するものの脅迫に決して屈しなかったということなのだろう。佐祐理さんは脅迫などで決して自分の信念を曲げることはない。それは佐祐理さんを中学時代から尊敬して止まなかった久瀬自身が一番よく知っているはずだ。
 自分の提出した議案が通らなかったのが悔しかったが故の暴言とはいえ、あり得ない脅迫事件を捏造するとは愚かな奴だ。
「……いいですか、久瀬さん。佐祐理が『水瀬高校における制服のデザインの変更』の素案を練っていた時、同時にバンカラ服も廃止すべきだという意見が数人の方からあがりました。ですが佐祐理は断固としてバンカラ服の廃止に反対し、バンカラ制服の廃止を議案に盛り込まなかったのです」
「そんな、ウソだ! 倉田さん、昔の貴女ならそんなことは絶対にしないはずだ! 嘗ての、“雪の女王クイーン・オブ・スノー”と呼ばれていた時代の貴女なら、必ずやバンカラ服を廃止したはずなのに!!」
「はい。確かに嘗ての佐祐理ならそうしていたでしょう。ですが、今の佐祐理はあの時の佐祐理ではないのです。変わったのです」
「変わった! どうして、何故なんです!?」
 佐祐理さんの変わったという言葉に、久瀬は酷く動揺した。そんなにも、久瀬の中で嘗ての佐祐理さんは金科玉条のように崇拝されるべきものだったのだろうか?
「世の中とは常に変わるものです。万物は流転する、諸行無常……世の中は常に一定ではなく移り変わりゆくものであるということは、古今東西の格言が証明しています。
 平安、室町、江戸、明治……。時代によって我が国の風俗というものは変わってきました。ですから佐祐理は時代の世相に合わせ今風の制服にデザインを変えるべきだと提唱したのです」
「そうです。世の中は変わるものです。だからこそ、いつまでも変わらないで昔のままのバンカラ服を廃止しないことが腑に落ちないんですよ! あれこそが、あの制服こそが時代の流れに最も乗らない過去の遺物じゃないですか!!」
「世の中は移り変わりゆくもの。それはこの宇宙の真理とも言えるかもしれません。ですが、移り変わりゆく世の中でも決して変わらないものがあるのですよ」
「変わらないもの? そんなものが本当に存在するって言うんですか!」
「ええ、存在します。それは“本質”です」
「本質……?」
「淀みに浮かぶ泡沫うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。水というものは川の流れや気温の状態により、姿形を柔軟に変えるものです。ですが、例えどんなに姿が変わろうとすれど、それが“水”であるという本質は変わりがないのです。
 同様に、世の中の風俗は移り変わりゆくものとはいえ、人の本質は変わらないものです。どんなに科学や文明が発達し進歩してゆくとしても、いつまでも人間は人間のまま、人の本質は変わりません。
 数千年前のイエスの教義や孔子の教えが現代社会でも生き続けているのは、人の本質が変わらない証左だと言っても過言ではありません。
 應援團のバンカラ服は、應援團の本質、魂を具現化したものだと佐祐理は思っています。あのバンカラ服だからこそ、水高の應援團は應援團でいられるのです。
 ですから、我が校の掲げる友愛、清新、気魄の三大精神が我が校の生徒の本質となる不変の内在的精神であるように、バンカラ服は應援團の魂や精神と一体化した不変のものなのですよ」
「魂? 精神だって!? はは……あははははははははは!! 一体どうしたというのですか倉田さん、以前の貴女ならそんな漠然とした観念を論拠としなかったはずだ!
 なのに何で今の貴女は……。理解できない、理解不能だっ……!!」
 久瀬は壊れたかのように笑い出した。自分が築き上げようとしたものが、自らが最も信頼を寄せていた人に壊されようとしているのだ。その軋轢に久瀬の精神は耐えられなかったのだろう。
「はい。確かに以前の佐祐理は魂や精神というものを信奉していませんでした。ですが、病は気からという言葉もあるように、人間というものは例え外傷や疾患がなかったとしても、人にかけられた言葉で心を著しく傷付けられるものです。それは人間という生き物が心や精神、魂といった一見漠然とした観念に従い生きている生物だからだと言えるでしょう。
 久瀬さん、今の貴方は佐祐理の言葉に心や精神を傷付けられた。ですから貴方はそんなに動揺なさっているのではないですか?」
「動揺だって、この僕が!? 心や精神が傷付けられているだって!? ははっ、そんなわけないじゃないですか、どうして僕がそんな観念に捕らわれなきゃならないんです? 全く持って非論理的じゃないですか。ははっ、あははははは……!!」
 久瀬は認めたくないのだろう。観念に捕らわれず論理的に物事を考察していこうとする自分もまた、心や魂に支配されているということに。
「そうですか……。では論理的に行きましょう……。久瀬さん、あなたは世の中はすべて変わるものだと思っているのですよね?」
「当たり前ですよ! そんな当然のこと今更訊くまでもないでしょう!」
「なら何故、人の心もまた変わりゆくものだということを認められないのですか?」
「えっ!?」
「佐祐理は以前の佐祐理とは違うと申しました。それは佐祐理の心が変化したからです。なのに久瀬さん、あなたは佐祐理の心境の変化を認めようとしない。世の中は移り変わりゆくものだと主張する貴方が佐祐理の心境の変化を認めないのは、論理的に矛盾していませんか?」
「う……ぐうう〜〜!!」
 確かに、佐祐理さんの言う通りだ。應援團の変化を求める久瀬が佐祐理さんの心境の移り変わりを認めたがらないというのは矛盾している。そう、久瀬にとって“雪の女王クイーン・オブ・スノー”と呼ばれてた佐祐理さんは、不変でなければならない精神の象徴だったのだ。
「僕は、僕はただ中学時代に貴女と交わした約束を守りたかっただけなのにっ……! うわあああああ〜〜!!」
 久瀬はとうとう自我を制御し切れなくなり、錯乱した呻き声をあげながら体育館から逃げ去っていったのだった。
「他に意見はありませんか? なければこれにて生徒総会を閉会します。全校生徒の皆さん、最後まで佐祐理に付き合っていただいてどうもありがとうございました」
『オオオオオ〜〜!! ジーク・カイザーリン! ジーク・カイザーリン! ジーク・カイザーリン・サユリーー!! ワアア〜〜!!』
 佐祐理さんが深々とお辞儀をし壇上から降りた後、怒涛のような歓声が体育館に木霊した。ジーク・カイザーリン、ジーク・カイザーリンと、誰も彼もが佐祐理さんを“皇女”として崇め奉り、生徒総会はクライマックスに達した。
 恐らく、体育館にいるみなが認識したのだろう。佐祐理さんの鋳造の皇女カイザーリン・フォン・グスの二つ名が決して伊達でも酔狂でもなく、彼女の本質を表した名であることを。
 そして想像したのだろう。数十年後日本初の女性総理大臣になるであろう、偉大なる佐祐理さんの勇姿を!



 ドサリ……
 歓声に迎えられ優々と壇上を後にしたかに見えた佐祐理さん。しかし、佐祐理さんはステージから降りた直後、突然バタリと倒れ込んでしまった。
『カイザーリンがお倒れになったぞーー!?』
 突然の事態に、歓声は一斉にどよめきの声へと変化した。つい先程まで壇上で華麗なる演説をしていた佐祐理さんが倒れたことに、全校生徒が狼狽した。
「佐祐理!!」
 ほとんどの生徒が動揺し混乱の渦に飲み込まれる中、一人舞先輩が佐祐理さんの元へ駆け付けた。
「佐祐理、しっかり!」
「うっ……ゴホッ……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
 佐祐理さんは苦しむように胸を押さえつけ、嗚咽の交じった声でひたすら謝罪していた。一体佐祐理さんは何をそんなに謝っているというのだ?
「うっ……!?」
 あれっ、何だこの感じ? 胸が締め付けられるように苦しい……。佐祐理さんが倒れ込み苦しんでいる姿を見ていると、それに釣られるかのように、自分自身も苦しみ出した。
「どうした祐一? 顔色が良くないぜ」
「ああ、大丈夫、大丈夫だ……」
 潤に必死に元気さをアピールするものの、実際は思ったより苦しい。この苦しさ、白色のプラモデルを赤く塗ろうとした時の気分に酷似している。一体何なんだこの感覚は!? 佐祐理さんが倒れ込んだこととプラモデルを塗る行為はまったく違うって言うのに、何でどうしてこんなに苦しい気分になるんだ……?
「祐一、保健室に行ったほうがいいんじゃないか? 先生にはオレから言っておくからよ」
「ああ、すまない潤……」
 俺は潤の厚意に甘んじ、苦しみに身を任せながら保健室へ向かって行った。



「!?」
 保健室には先客がいた。舞先輩が倒れた佐祐理さんを運び込み、必死で佐祐理さんを看病していた。
「佐祐理、大丈夫……?」
「はぇ……申し訳ありません、舞にまで迷惑をかけてしまって……」
「ううん、私の方こそごめんなさい……。本当はできるはず・・・・・なのに何もしてあげられなくて・・・・・・・・・・・……」
「舞が謝る必要はないわ。それに、舞に手を握られているだけで少し気分が良くなったみたい。ふふっ、まるで舞の手は不思議な力を秘めた魔法使いの手みたいね……」
 グッ……。
 あれっ、なんだ……。舞先輩が佐祐理さんを看病している姿を見ると、自然に怒りの感情が巻き上がり、拳をギュッと握り出す。
 おかしいぞ、おかしいぞ俺……。何で舞先輩の献身的な姿を見ていて怒りがこみ上げて来るんだ……? この情景、誰もが怒りなど持ち得ない場面だっていうのに……。
 ズキン……ズキン、ズキン……
「ぐ、ああっ……!?」
 そして何故か胸の苦しみは激しさを増し、それに加え今度は耐え難い頭痛に苛まれた。
「誰っ!?」
 俺の苦しむ声に反応して、舞先輩が俺のほうに顔を向けた。
 ドクン! ドクンドクンドクン……!!
「ぐっ、がはっ……!!」
 舞先輩が自分の方に目を向け始めると、心拍数が上がり始め、胸の苦しみはますます強まっていた。
「祐一!? どうしてここに?」
「やめろ!」
 やめろ、やめてくれ! その顔で、その声で俺に近付いて来るんじゃない!? 咄嗟に巻き起こった感情。それは生理的に舞先輩を拒否する感情だった。
 自分でも何でこんな感情を抱くのかまったく理解できなかった。舞先輩は何も悪いことをしていないはずなのに、何でこんなにも怒りと無念の気持ちが高まって来るんだ……!?
「祐一、どうしたの? 何かあったの……?」
 ズキンズキンズキン……!! ドクンドクンドクン……!!
「うっ、があっ……!?」
 ドサッ……
 舞先輩が近付けば近付くほど、俺に声をかければかけるほど、頭痛と動悸は激しくなり、とうとう俺は耐え兼ねて床へ倒れ伏してしまった。
「祐一!」
「ふえっ……祐一さん、祐一さん、どうかなさったんですか!?」
 舞先輩が懸け付ける姿が、佐祐理さんがベッドから這い上がり俺の元へ近付こうとする姿が、閉じゆく俺の眼にうっすらと映っていた……。



「なんで、どうしてできないの? お姉ちゃんみたく!!」



「ヤダよ……このままじゃ死んじゃうよぉ!!」



「助けてよぉ、助けてよぉ、お姉ちゃん……」



 あれっ、何だこれは……。朦朧とした意識の中で必死に“お姉ちゃん”に助けを求める男の子の姿がある。この男の子は俺……? 俺は一体何に悩む苦しみ、助けを求めているんだ……?
「ぐ、ああ〜〜!!」
 ダメだ! 真相を追究しようとすると、まるで禁忌に触れたかのように激しい苦痛に苛まれる。身体が拒絶しているのだ。耐え難い何かを思い出すことに。
「祐一、祐一!」
「祐一さん、祐一さん!!」
 混乱する俺の頭の中に、舞先輩と佐祐理さんの声が響く。
「なんで、どうして……」
 これは俺が言ってるのか? 脳裏に焼き付いた忌むべき記憶が俺に語らせているのか……?
「何であの時僕を助けてくれなかったのに、そのお姉ちゃんは助けるの!? お姉ちゃんなんか、大っキライだーー!!」
 違う、違うんだ。俺は舞先輩を嫌っていない、嫌っていないはずなのにっ……! なのに、どうして“大キライ”なんて言ってしまうんだ!?
「してないよ……私、何もしてないよ……? 佐祐理には何もしていないよ……? 何もしていない、何もできないようにした・・・・・・・・・・・のに、何でまだ私を嫌うの? ねえ、祐一!」
「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい!! キライだキライだキライだ!! お姉ちゃんなんか大キライだ!!」
「やめて、やめてぇ! 嫌わないで、嫌わないで私のことを……! 私、捨てたんだよ? 祐一に嫌われたくないから……。なのに、どうしてまだ昔見たく私を慕ってくれないの、祐一……」
 本心じゃないのに、本心じゃないのに。僕はお姉ちゃんがキライじゃないのに!
 なのに俺は舞先輩を激しく拒絶し、何度も何度もキライだと叫んでしまった。そして舞先輩は激しく動揺しながら、保健室を後にしたのだった。
「そう、そういうことだったのね……。“舞がお姉ちゃんだった”のね……」
 そんな佐祐理さんの言葉が、錯乱している俺の脳裏に深く響いたのだった……。

…第壱拾九話完


※後書き

 何か怒涛の展開という感じになってしまいましたが、アニメで考えると2クール目に突入しているので、そろそろストーリーに起伏が欲しいと思いましたので。
 さて、最後の方で舞ヤンデレ全開になったのには、それなりに理由があります。それは、「Kanon傳」よりストーリーに深く関わるようになったからです。
 一体どう深く関わるようになるかはこれからの展開をお楽しみくださいということで。

弐拾話へ


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